日本の授業研究は即興劇のシナリオ検討?


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韓国ソウルでのタブレットを用いた授業

僕は心理学を背景として教育とICTとの関係を広く見る事を得意としているので、日本の支配的な授業研究方法については客観的・第三者的に見ているところがある。研究者の端くれとして、専門の領域ど真ん中ではない事についての考察はあまり公にしないのだが、実はそうも言っていられない状況になりつつあるので(それは追々)、これまで考えてきた事を少し言葉にしておきたい。

さて…

日本の授業研究は、教員の設問・問答による即興劇の構成検討のように思うことがある。教室を支配するルールは、いわば、全員参加型即興劇のお約束事だ。

学習者は観客であり即興劇の演者でもあるから、結末(知識)が分かっていても、まずは、教員の指示に粛々と従って、プロセスに関わらないと授業が進まない。
観客がネタばらしするのは御法度だし、劇中にスマホを覗いたり、通話したりと、勝手気ままに行動されては即興劇のシナリオが台無しになってしまう。

仮に、教員の仕事はシナリオと場面のコントロールであり、即興劇の監督兼主演者であると認識するなら、授業を完全に制御下に置きたくなるのは当たり前だ。劇中の仕掛けが完璧に動作することを追求し、一方で観客スマホの電源OFFを要請するように、教員が与えるICTは、小道具の「教具」として完璧に制御されなければならない。

学校現場を見ていると、日本的な教員主導型即興劇的授業構成が、最も優れた教育方法である、という所与の前提に立ち、授業研究は即興劇の精緻な制御にこだわっているように見受けられるが、その前提と探求方法が正しいかどうかは、実のところ良く分からない。

例えば、場面即興の効果を追求すれば、授業は刺激たっぷりだけど出口がわからない「ローラーコースター・ムービー」*1 のようになる。娯楽ならそれも楽しいが、学習者が自らゴールの見通しや段取りを明確に持てない状況に置いたまま、場面適応(空気を読む)訓練で、学習者の受け身的な反応を強化していることにならないだろうか。
あるいは、教具としての制御にこだわるばかりに、ICT利活用をより高度に、面倒臭く、教員に負担がかかるように仕立て上げ、かえって授業リスクを過大なものにしていないだろうか。

支配的な授業スタイルを所与の前提にすると、内部に留保された本当の課題は見えなくなるものだ。個人的には「教員の設問・問答による即興劇の構成検討」ではないタイプの授業研究に注目したいし、そうした多様性がすでに各地で試行されていることを期待したいところだ。

(2016/9/24にFacebookで公開した記事を転載しました)


*1  かつて教育番組「セサミストリート」は短時間エピソード、奇抜な色使い、賑やかな音楽、といった映像特性を駆使した「マガジン・フォーマット」を用いて視聴者児童を番組に引付ける事に成功し、退屈な教育番組という常識を払拭したのだが、一方で、それは子どもの学習動機付けを高めているのではなく、単に刺激に対する生理的反応で縛り付けているだけではないか、という批判を受ける事にもなった。「ローラーコースター・ムービー」とは、テレビから与えられる強烈な刺激を皮肉って表現されたもの。